「ふくい桜マラソン」からの便り

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笏谷石採掘の歴史

笏谷石の採掘の歴史は古い、足羽山の「山頂古墳」からは、笏谷石をくり抜いて作られた古墳時代の石棺が見つかっている。

言い伝えでは、5世紀後半、「男大迹王(おほどのおおきみ)」(のちの第26代の天皇継体天皇」=それまでの神話の中の存在ではなく、実在が確実視されている最初の天皇)が「越(高志)の国」の治水事業の際に立ち寄った足羽山の麓で笏谷石を見つけたと言われている。

「男大迹王」は、笏谷石を見つける際に三本の矢を弾ち、矢尻で水を噴き出させる程、岩を割ったという伝説が残っている。矢を弾った場所は、足羽山の北西端の「笏谷神社」として今も残り、その伝説の地の近くに笏谷石「七ツ尾口採掘場」跡がある。

「七ツ尾口採掘場」は、「男大迹王」が民の生計の為に採掘を奨励したゆかりの地である。

室町時代には、笏谷石は礎石や各種の石塔類・灯ろうなどに使用されるなど寺院を独特の美で飾り、石造・石掘文化を開花させた。

さらに戦国時代には一乗谷城を拠点とした朝倉氏の保護を受けて、「笏谷文化」が発展した。

天正年間の築城ラッシュでは、「丸岡城」をはじめ「北ノ庄城」や「福井城」の屋根瓦や石垣に笏谷石が多用され、武家屋敷や九十九橋脚など城下町の建設にも使用された。

江戸時代になり北前船の運航が始まると、越前の外に向かって笏谷石が広く普及し始める。「越前石」と呼ばれて全国で取引され、福井の一大産業となった。

足羽川は河川改修が行われた昭和初期まで、笏谷地区へ大きく蛇行して流れていた。笏谷一帯には多くの採石場があり、今の「丹厳洞」があるあたりの船着き場から、笏谷石を川岸で舟に載せ、舟運により越前国内外へ送り出した。特に江戸時代には、三国湊から北前船で、船を安定させる役目を兼ねて笏谷石を船底に積み、越前特産の石材として主に日本海側各地に運ばれた。



笏谷石は、適度な堅固さと軟らかさを持ち、ツルやクサビを利用して容易に手彫りで採掘ができたこと、そして耐火性や青緑色の美しさなどを併せ持っていたことにより、古代から中世や近世の人々にとって生活に欠かせない有用な石材となり、『笏谷石文化』と呼ぶべき石造・石彫文化を創出させた。

福井の歴史や文化を語るとき、笏谷石の存在は欠かせない


だが、1500年以上続けられてきた笏谷石の採掘は、諸事情により1999年(平成11年)9月に終っている。
(諸事情:コンクリートやタイルの普及、人件費の高騰、石職人の減少、安い外国産石材の普及・・・・)

足羽山の地下には、現在でも長大で広大な採石場跡が静かに眠っている