「ふくい桜マラソン」からの便り

さいごのピースが カチっとはまる

「笏谷石文化」

福井にとっての「笏谷石」とは、なんなのか?
「笏谷石」は「笏谷石文化」であり「福井の誇り」。

以下、
福井商工会議所」会報のホームページ 
http://www.fcci.or.jp/fsho/
『会報』2018年新年号の記事からの引用です。
「時代を超えた努力がつくる福井の誇り」
http://www.fcci.or.jp/fsho/1801/1801_50.pdf

 

時代を超えた努力がつくる福井の誇り


〜 今だからこそ求められる福井の魅力再発見〜

来年度に迫る福井国体や、5年後の北陸新幹線福井開業を控え、観光面での福井の集客力が試される時が来た。福井を訪れた観光客の数や目的などをまとめた統計「平成28年福井県観光客入込数(福井県観光振興課調べ)」によると、市町村別で最も観光客が多いのは福井市(約400万人)だ。しかしその一方で、福井県の観光地として有名なのは恐竜博物館や永平寺東尋坊など、福井市外のスポットであり、福井市中心部は埋没しがちである。今回の特集では、福井市中心部の隠れた名所や伝統文化を取り上げる。他の地域にはない福井の魅力を再認識し、何が「魅力」として感じてもらえるのか、地域の良さを伝えるには何が必要なのかを探った。

 

福井人のアイデンティティに繋がる「石の文化」

笏谷石が支えた福井の産業

青緑の緻密な石肌を持ち、水を掛けると鮮やかな青が浮かび上がる-福井の足羽山でのみ産出する笏谷石は、全国の歴史的建造物にも使用されている名石だ。笏谷石は、伝説において継体天皇の勧めで生産が始まったとされる。考古学上でも古墳時代の石棺に笏谷石が使用されていることから、古い時代から石材として利用されていたことがわかる。江戸時代になり北前船の運航が始まると、笏谷石が広く普及し始める。「越前石」と呼ばれて全国で取引され、福井の一大産業となった。
かつて笏谷石の生産を営んでいた越前石㈱(福井市加茂河原4-6-5)の福島喜衞(よしえい)氏は、「笏谷石の取引は歴史的に続けられており、そこで得た富が後の福井の発展の土壌の一つになった」と考えている。

地中に広がる大坑道「笏谷石採石場跡」

笏谷石を産出した足羽山の地下には、長大な「坑道」と、とても地下とは見えないほどの高さと広さを持つ「採石場」が存在する。
採石場がここまで開けた空間となったのには理由がある。元々笏谷石は標高の高い上部から下に向けて採掘され、垂直に穴が作られた。戦時中には、採石場は海軍の飛行機生産工場として接収され、この時に縦穴を繋ぐように坑道が掘られ、広い空間が造られた。福島氏は「軍の工場として再整備されたことで採石場保全環境が向上し、現代にそのままの姿で残すことができた」と分析する。
笏谷石は古代から採掘され続けてきた。採石は極めて重労働であり、人々は約100kgの石材を抱えて作業していたと伝わる。切り出した石材は足羽川を伝って三国に輸送され、三国湊から北前船で全国に運ばれた。その寄港地には笏谷石の建材や置物が数多く残っている。
現在は笏谷石の採掘は終了しているものの、当時は機械もなく、全て手作業で採掘されていた。採石場跡からはこうした当時の人々の営みを肌で感じることができる。

「努力遺産」を後世に伝え続ける

福島氏は、笏谷石の採石場を福井の「努力遺産」と考える。「この場所は生活のために危険な作業に従事していた人たちの努力で造られている。このような“思い”や“勤勉さ”の積み重ねは福井のアイデンティティにも繋がる」と福島氏は語る。
その一方で、福島氏は福井の人々は自身の強みを表に出さない傾向があると考えている。「地域の魅力は積極的にPRしなければ、十分に伝え切れない。だからこそ、福井の人々の努力の結晶である笏谷石を地域の誇りとしてこれからも伝え続けたい」。そう語る福島氏は、昨年、採石場跡でピアノコンサートを開催。150名を超える観客を集め、笏谷石のPRを行った。今後も、様々な広報活動を通し、福井の産業を興した、誇るべき笏谷石文化を地域内外に伝え続けていく。

 

福井石(株)のHP 「福井石の郷」