「ふくい桜マラソン」からの便り

さいごのピースが カチっとはまる

丹厳洞(たんがんどう)(約40K地点)

ここは40K前の登り坂です。
一見切通のように見えますが、ここは「笏谷(しゃくだに)断層」。
左右の山は足羽山の西側の端です。

坂の先を下った先の交差点「明里」(あかり)を左折すると、40K地点です。

 

「明里」の交差点の手前を左側を入ったところが、『丹厳洞』(たんがんどう)です

 

 

2016/02/02 ブラタモリ「#124 福井」で 「丹厳洞」が紹介されています。

「丹厳洞」ってなに?? 洞だから洞窟?
GoogleMapでは「食事処」のマークがついてますが・・・

ここが「丹厳洞」の入口です。

中の様子がわからないので、こちらのWebをご参照ください。
福井市観光公式サイト『福いろ』にのっている『丹厳洞』

喧騒を離れ幕末の面影を今に残す草庵と庭園。

江戸時代後期の弘化3年(1846)に、福井藩医山本瑞庵が別荘として建てた草庵。舟遊を兼ねて藩主松平春嶽をはじめ、横井小楠橋本左内中根雪江などがここを訪れ、密議を凝らしました。

現在は料亭となっていて、歴史を感じながら食事を楽しめます。

敷地内には、笏谷石の石切り場の跡が残っており、敷石や橋にもふんだんに笏谷石が使われています。

とあります。


さらに以下、
福井商工会議所」会報のホームページ
http://www.fcci.or.jp/fsho/
『会報』2018年新年号の記事からの引用です。
「時代を超えた努力がつくる福井の誇り」
http://www.fcci.or.jp/fsho/1801/1801_50.pdf

 

地元の偉人が活躍した現場を探訪

福井の文化サロンとして福井藩医が建立

丹巌洞(福井市加茂河原1-5-12)は草庵や庭園、料亭が揃った名所。江戸時代の後期に福井藩医を務めた山本瑞庵の別荘として草庵が建立されたのが起源となる。加茂山を背景とし、足羽川を望むことができる景勝地として多くの著名人が訪れている。また、幕末の志士たちの密談の場としても広く知られている。明治時代以降は要人の接待や会議の場として使用された。戦災や震災で失われることなく当時の姿をそのまま現代に伝えている。
草庵の最初の姿は、坂本龍馬だった。山本瑞庵は和歌や俳句を好む風流人であり、丹巌洞は同好の文化人との交流の場であった。彼らは草庵から望む絶景を楽しみながら作品を披露した。橘曙覧や松平春嶽も草庵を訪れ、丹巌洞を詠った作品を残している。

新しい日本を模索する志士たちの残滓

幕末期になると、草庵は文化サロンとは別に密議の場としても使われ始める。福井藩主である松平春嶽開明的な考えを持っていたが、福井藩自体は将軍家に近い親藩のため、難しい舵取りを強いられていた。この状況にあって草庵が密議の場となったのは、春嶽自身が訪れたことがあり、閑静な景勝で、落ち着いて話しやすい環境だったからかもしれない。草庵を訪れたとも伝わる坂本龍馬は、改革には福井藩の力が不可欠と考え、死の前まで福井藩と交渉し続けたと言われている。
現在、草庵の中は資料館となっており、展示資料などから当時を偲ぶことができる。


時代で変わる顧客ニーズに対応

明治以降、会議の場として多くの客が訪れる中、接待の場として丹巌洞が選ばれるようになった。この頃、山本家から宮﨑家に所有が変わり、料亭「丹巌洞」を創業して接待の質を向上させた。昭和期には岡田啓介に代表される要人の接待に多く利用されている。
バブル崩壊をきっかけに料亭の需要は大きく減少した。店を畳むところも出る中で、丹巌洞は現在も営業を続けている。
丹巌洞は草庵だけではなく、庭園や客間も全て揃って一つの名所になる。その維持にかかる時間と手間は想像を絶する。「歴史ある建築物が多く、昔ながらのやり方で補修しなければならない箇所があるなど手入れは簡単ではない。敷地内の大木も寿命が近いものがあり、伐採した木もある。しかし、先祖代々手をかけて維持し続け、地域社会にも密接に根付いているため、丹巌洞を潰してしまうわけにはいかない」と宮﨑信雄代表は強い意志を込めて語る。最近では、結婚式の多様化に伴い、和風の結婚式会場として選ばれる機会が増えた。また、丹巌洞の絶景を撮影スポットとして利用する人も増えている。例えば、成人式用の写真の撮影ニーズなどが増加している。時代が求める役割を果たしつつ、丹巌洞は地域と共に今後も在り続ける。

 

《江戸時代後期に、福井藩医山本瑞庵が別荘として建てた草庵》
《福井の文化サロンでもあった、橘曙覧、松平春嶽
《藩主松平春嶽をはじめ、横井小楠橋本左内中根雪江などがここで密議を凝らした+坂本龍馬も?》
《昭和期には岡田啓介に代表される要人の接待に多く利用された》
《現在は料亭となっていて、結婚式の会場や撮影スポットにも利用されている》
《幸い戦災や震災で失われることなく当時の姿をそのまま現代に伝えている歴史ある建築物が多い、
福井では貴重なこと》

 

さらに「丹厳洞」あたりは、草庵になる遥か1500年前から、笏谷石の採石場でした。
足羽山は福井の誇る銘石「笏谷石」の産出されるところ。
その採石坑の跡があることから「丹厳」「洞」となっている。

 

足羽山から切り出された笏谷石をここから船に乗せ、
足羽川から日野川そして九頭竜川日本海の各地へと笏谷石が運ばれていました。
笏谷石は福井にとっての富であり文化であったのです。

ラソンコース40K地点手前の坂の左側には「丹厳洞」、
そして右側には笏谷石の採石坑道入口「七ツ尾口」が今でも残っています。

 

 

「丹厳洞」右隣にある、いわくありげな(六)じゃない(五)地蔵、
登った先には特に変わった景色はなかったが・・

 

ということで、ゴールまであと少しです、
40K地点に最後のエイドがあります。