「ふくい桜マラソン」からの便り

さいごのピースが カチっとはまる

「布久漏(ふくろう)神社」・「十郷(じゅうごう)用水」(約18K地点)

丸岡から帰りの県道、約18K地点にあるのがこの神社、「布久漏(ふくろう)神社」。
参道が、マラソンコースに対して斜めになっているので、ちょっと変な感じだが、
斜めになっているのはコースの方で、神社の参道は、きっちり南北のライン上にある。


往路に通った「追分地蔵」から、丸岡寄りに、150mほどしか離れていない。
往路から見るとこんな感じ。


「布久漏(ふくろう)」とは、なにやら音を無理やり漢字に当てたようだが・・

「布久漏神社」(註1)入口にある説明看板

「布久漏(ふくろう)」はこの辺(北横地)の古い地名らしいが、由来については書かれていない。

継体天皇の皇女円弥媛(まるやひめ)の用水に対する尽力・・・』、
『用水』とは、神社のすぐそばを流れている「十郷用水」(註2)(じゅうごうようすい)の事だろう。

(神社わきを通る「十郷用水」、神社の後ろ側から来て、道路を横断・・暗渠化されている)

(土台は笏谷石)

(神社後ろ側からの「十郷用水」)



(往路側からみた「十郷用水」、遊歩道の下は用水)



ここから南東約7Kの九頭竜川の「鳴鹿大堰」(なるかおおぜき)より取水された水が、「十郷用水」を流れ、福井(坂井)平野の灌漑用水として利用されている。

九頭竜川が平野部に出てくるところが「鳴鹿」(なるか)(註3)付近である。

岐阜県境を源とし日本海に流れ込む九頭竜川の流域には、「継体天皇(註4)の治水・利水伝説が多く残り、「十郷用水」の起源は継体天皇が作ったとの言い伝えがある。

「鳴鹿」からの用水の起源は、「継体天皇」そして「皇女円弥媛」に引き継がれた事業だったと想像される。

(危険防止の為か、用水は、ほぼ暗渠化されている)

「鳴鹿」(なるか)の付近、九頭竜川が平野に注ぎ込む松岡・丸岡町の両岸には、「越(高志)の国」(こしのくに)(敦賀以東の福井・石川・新潟地方)でも最大級の古墳(註5)が連なる。(左岸の松岡側には「松岡古墳群」、右岸の丸岡側には「六呂瀬山古墳群」)

最大級の古墳の存在は、それなりの先進的な技術・文化を持つ「越」(高志)(こし)の中でも最も有力な豪族がいたということだ。それらを背景として「鳴鹿」からの用水開発だったと思われる。

古代の「越(高志)の国」は、日本海を望み、朝鮮文化の受け口となり、海路を通じて、北は北海道・東北、西は若狭・出雲・九州の文化との交流を可能とする重要な地点だった。母なる九頭竜川の恵みを受けた越前の環境の中から継体天皇(ヲホト大王)が地方から大和へ出ていった、と思われる。

このあたりは、単調な道ではあるが、ちょこっと古代の歴史を感じながら、走れたらと思う。

 

約18K地点、通過です。


九頭竜川左岸・「松岡古墳群」「二本松古墳」(二本松山頂上)より九頭竜川流域・福井平野への眺望)
(真ん中あたりの、円柱が「マイアクア」、その奥が「新九頭竜橋」だ、その先に日本海

 

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(註1):「布久漏神社」
神社に祀られているのは、
品陀和気尊(ほんだわけのみこと)(第15代・応神(おうじん)天皇
・気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)(神功(じんぐう)皇后)
 (第14代・仲哀(ちゅうあい)天皇の妻、第15代・応神(おうじん)天皇の母)

神社の縁起によると、
『当社は、應神天皇 神功皇后の二柱の大神を御祭神としてお祀りしています。御創建の年代は詳らかではありませんが、醍醐天皇延長五年(西暦九百二十七年)に編纂された 延喜式神名帳に登載する延喜式内社であることから、それより以前に御創建されたことがわかります。
社伝によれば、人皇第二十六代継体天皇が男大迹皇子として越の国坂中井にお住まいの頃、この辺り一面は泥沼で耕地は大変少なかったといいます。皇子は郷土心が強くいつもこのことを憂いておられました。ある時、九頭竜川の水口を切り開いたところ、水が海に流れるようになり次第に耕地が出来上がりました。皇子が継体天皇となられた後、この布久漏郷に第十九番目の皇女円媛命がお住みになり、この治水事業を承け継がれ現在の十郷用水の礎を造られたのです。円媛命は、御自身が應神天皇第六世の皇孫に当たることから、應神天皇 神功皇后氏神として祀り、土地の名を取って布久漏神社としたのが御創建である と伝えています。 』
「布久漏神社」は第26代・継体天皇(男大迹大王(をほどのおおきみ))ゆかりの神社ということになる。


(註2):「十郷用水」
「十郷用水」は、平安末期に開削されたと伝えられ、春日社興福寺の荘園だった十の郷に水を引くためつくられたとされている。
「鳴鹿大堰」から取水された用水路は、一部パイプライン化され、ほとんど暗渠化され、地上部は遊歩道になっている所もある。

(鳴鹿大堰)

(註3):「鳴鹿」(なるか)

「鳴鹿」にまつわる伝承が残されている・・
「東南の山奥から一頭の鹿が里に下りてきて、一声大きく鳴いた。この鹿は、布久漏の地に来てしばらく憩い、餌をあさり、その後、本荘方面に向かって駆けていき、忽然と姿を消した。その鹿の鳴いた場所が、現在の「鳴鹿」の地名の起こりだという。鹿の通過した跡を調べて、掘って用水路にしたのが現在の十郷用水の起源だという。」

(「十郷用水」)


(註4):「継体天皇
「男大迹大王(をほどのおおきみ)」のちに継体天皇という名でよばれ、6世紀初めに現れた、第26代の天皇である。歴史的に実在した天皇であることは間違いないらしい。
諸説はあるが、「継体天皇」は近江で生まれ、母・振姫の出身地(この丸岡付近といわれる)の越前で育った可能性が高い。近江で生まれ育ったという説もあるが、「継体天皇」が越前と色濃く結びついていたことは否定出来ないようだ。
応神天皇五世孫」が事実だとしても、かなり疎遠な傍系王族であり、なおかつ「越(高志)の国」という畿内ではない地方出身の天皇は他にはいない。

ラソンスタート地点から左手前方に見える(南西約1K)福井市民の憩いの山である足羽山には、「継体天皇」の石像が建ち、足羽山の登り口のひとつである「愛宕坂」を登り切った先にある、枝垂れ桜がみごとな「足羽神社」は、「継体天皇」をお祀りしている。



(註5):「最大級の古墳」
最近のこんな記事が目についた、

2022/12/06 福井県朝日新聞 より引用

六呂瀬山1号墳 
前兆143メートル北陸最大に
格式示す埴輪も

坂井市教委は、同市丸岡町上久米田~下久米田の丘陵にある六呂瀬山古墳群の1号墳の全長を143メートルと確定し、北陸最大の前方後円墳と確認されたと発表した。1号墳東側からは格式高い家を模した埴輪の屋根の頂上部の「鰹木(かつおぎ)」も出土。祭祀が行われていた可能性が高く、担当者は「北陸で相当の力があった王の墓と推測され、継体天皇につながる人物の可能性がある」とみている。
六呂瀬山古墳群は約1600年前の前方後円墳(1,3号墳)と方墳(2,4号墳)の4基から成り、1990年に国史跡に指定された。最も大きい1号墳は2018年度から調査を進めてきた。18年度の調査では後円部の裾の位置を確定し、石川県能美市の秋常山古墳群の1号墳(全長140メートル)と並んで北陸最大級とされてきた。今年度の調査(10月~11月)で、南側の前方部の裾の位置を確定したところ、全長は143メートルとなり、北陸最大と判明した。また、1号墳の後円部東側には張り出し(造り出し)部が確認された。ここから埴輪の鰹木や小型のつぼ、食べ物を模した土製品などが見つかっており、祭祀が行われていた可能性をうかがわせた。



(六呂瀬古墳群1号墳)