「ふくい桜マラソン」からの便り

さいごのピースが カチっとはまる

福井大仏(約1K地点)

スタートから約1Kにあるのが、「福井大仏」です。

ラソンコースはこの交差点を右折し「桜通り」に入り、桜並木の道を東に向かいます。
大仏の右側(北側)の大きな屋根は、隣の東本願寺真宗大谷派)の福井別院です。

今まで近くを通る時にちらっと横目で見て通り過ぎるだけでしたので、いい機会です、近くで見てみましょう。

正確には「福井大佛観音」なんですね。

大仏というと、「奈良の大仏」の廬舎那仏とか「鎌倉の大仏」の阿弥陀仏とかなんでしょうけど、観音菩薩の大仏とはめずらしいんじゃないでしょうか?

 

ここが正面の入口です。

『この仏頭は元禄四年(1691年)福居の地に最初に建てられた石大仏のものである。一乗谷から足羽川を船で運ばれた。』

とあります。けっこう大きな《石大仏》の仏頭のようですが、《石大仏》とは何なんでしょう?「一乗谷から運んだ」とは?奥の「福井大佛観音」と、如何なる関係なんでしょうか?

こちらが「福井大佛観音」、左手に蓮のつぼみを持ち、右手は「与願印」の観音菩薩の坐像です。石で作られていないことは確かですが・・

 

《石大仏》の左横に、古い碑文を書き直した説明石碑がありました。

これによると、

  1. 最初の《石大仏》(石造りの大仏)は、光照寺と共に、福井市の近郊、朝倉家の旧城下の一乗谷にあった。(《石大仏》のルーツは一乗谷朝倉家城下)
    その胎内には、一千余年前・弘法大師の自作と言い伝えられる伽羅木の聖観音像が蔵められていた。
  2. 朝倉家滅亡の際(1573年)、《石大仏》は兵火によって焼失したが、胎内の聖観音は辛うじて事なきを得た。
  3. 慶長11年(1606年)、光照寺天台宗(註)福井市(当時、福井市は「北の庄」と呼ばれていた)に移転(ここから南約80mの場所?多分)。
    これに伴って、聖観音像を蔵めた石造りの大仏《石大仏》が光照寺の境内に再建。(北の庄で石仏が再建されたのは元禄5年(1692年)なのか?)
  4. 安政元年(1854年)の大火で《石大仏》焼失。
  5. 安政3年頃(1856年頃)、《石大仏》再建。
  6. 明治35年(1902年)、《石大仏》大火で焼失。
  7. 明治42年(1909年)、《石大仏》再建。
  8. 福井空襲(1945年7月19~20日)・福井地震(1948年6月28日)で《石大仏》壊滅。
  9. 昭和33年(1958年)、《石大仏》再建。
    《石大仏》は累次の災禍を経たが幸いに胎内の聖観音像は、その都度難を免れた、之を安置し永く諸霊冥福と家郷安泰を祈念すべく、《石大仏》を再建。
    従来の石大仏を金銅佛に代えると共に台座をコンクリート造りに改める、台座の内部は供養殿とし中央に聖観音像を安置。

時系列でまとめるとザーッとこのようになります。

一乗谷から福井(北の庄)への移転が慶長11年(1606年)で、その後の《石大仏》の再建は、元禄5年(1692年)になるんでしょうか?間が空きすぎているようにも思えますが・・

少々不明な点もありますが、簡単にまとめると、

一千余年前、一乗谷で創建された「光照寺」、そこに《石大仏》+《聖観音像》(伝・弘法大師の自作の胎内仏)、朝倉氏滅亡の際、《聖観音像》は無事で、そのあと福井(北の庄)に光照寺が移転し、再建された《石大仏》は、その後幾度か火災、震災等にあい、今に至っている。

さっきの入口の石仏の仏頭には、
『この仏頭は元禄四年(1691年)福居の地に最初に建てられた石大仏のものである。一乗谷から足羽川を船で運ばれた。』
とありますので、朝倉氏滅亡の時、一乗谷で兵火によって焼失した?《石大仏》の一部または全部??を船で運んだのでしょうか?それをすぐ再建したのでしょうか?この辺よく分りません・・

観音菩薩は、33通りに姿を変え衆生の願いを聞き届けてくれるという謂われにちなみ、《石大仏》の聖観音像は、33年おきに開扉(開帳)されてきたといわれています。
最近では中間の時期に中開扉されるようになり、17年ごとに開扉されているようです。直近では2001年に本開扉され、2018年に中開扉されています。

2018/4/28~30の開扉の様子が載っているブログがありました。

http://takac0421.blog.fc2.com/blog-entry-1784.html?sp
(『のくて~takaのYOUいっちゃいなよ!』より)
(ちなみに、↑のブログタイトルの「のくて~」というのは、福井弁なんですが、Web辞書で調べると、「馬鹿な、愚かな、動きが鈍い、間抜けな」と出てきます、が、でも、なんか、
おおもとの意味は、多分勝手な推測ですが、「ぬくてぇ~」→「のくて~」なんじゃないかと勝手に他所もんは思います。「ぬくてぇ~」→冷たい雪の季節がだんだんゆるんできて「ぬるく」なってきて「ぬくてぇ~」なんですね、「ぬくて~」の言葉はよく耳にします。それが、あいつなんか「ぬくてぇ~」になって、それが・・「のくて~」になって、それが、「あいつぬるいぜ、とろくねえ、愚かな、動きが鈍い、間抜けな、あほな」となったんじゃないかと、勝手に思っておりますが、あたってるんでしょうか、わかりませんが・・・。)

↓下の註にも書きましたが、

《石大仏》がある光照寺(正確には西山光照寺)は、

ルーツが「一乗谷・朝倉氏城下」で、寺の開基が伝教大師最澄、《石大仏》には弘法大師空海が彫ったという聖観音像が胎内仏として納められている。
最澄空海、日本の平安仏教界の2大スターが関係しているお寺なのです。
実際の史実は、なんとも言えませんが、このような伝承があるのが、ここ西山光照寺の《石大仏》です。


ということで、約1K地点、通過です。


 

(註):光照寺(正確には西山一乗院光照寺

「福井大仏・西山光照寺」のWebより↓

明治33年に書かれた「明細帖」によると、「大同年中(806~810)、伝教大師ノ開基」とあり「一乗円頓戒ヲ普く庶民ニ授与」するために建てられたとしている。
寺号は「西山一乗院」である。この「院号」をもつて「地名」とした、とも書かれている。「一乗院」がある谷だから「一乗谷」という地名が生まれたという。谷の西側の山辺にあったので「西山」とついたのであろう。創建当時、どのような規模の寺であったかは不明・・・


ひと昔前ソフトバンクのCMの舞台となった「一乗谷朝倉氏遺跡」に、「西山光照寺跡」の遺跡があるようです。

「福井県:歴史・観光・見所」のWebより

西山光照寺跡(一乗谷朝倉氏遺跡)概要:
西山光照寺の創建は大同年間(806~810年)、最澄大師が開いた寺院を、文明3年(1471)越前統一の祖を築いた朝倉孝景が叔父である朝倉将景(光照郎用)の菩提を弔う為、真盛上人の高弟盛舜上人を招いて再興したのが始まりと伝えられています。

朝倉氏に庇護され寺運は隆盛し一乗谷真盛派の代表的寺院となりましたが、天正元年(1573)、朝倉氏が織田信長により滅亡させられると一乗谷も壊滅、西山光照寺も焼失したと思われます。

当時は弘法大師空海一乗谷を訪れた際、石造大仏を造営し自ら彫刻した聖観音像を胎内に納めたものが偉容を誇っていたとされますが、戦禍により胎内仏は持ち出されたものの石造大仏は粉塵に帰したそうです。

慶長11年(1606)、福井藩初代藩主結城秀康により福井城下に移され再興し現在に至っています。西山光照寺跡には大型の石仏が40体、石塔、石仏が340体以上、境内には大規模な堂宇の礎石や地下倉庫、石組、石積施設、墓地などが発掘され当時の繁栄を物語っています。


ブログ「福井県 大好き!!」
にも「西山光照寺跡」の案内が載っています。

西山光照寺跡には笏谷石(しゃくだにいし)で作られた大型の石仏が今でも残っています。(「石仏と石塔!」のWebをご参照下さい)

(「笏谷石」:火山礫凝灰岩で、青みを帯び、水にぬれるとその色が鮮やかに浮かび上がるという神秘的な魅力を秘めていて、石質はやわらかくて加工しやすく、色調も美しいことから、福井では古くより生活に利用され、名石として使われてきました。福井県の石として指定されてます。石塔、石廟や石仏などの建造物の他、生活用品としても幅広く利用されています。スタート前の「福井城址」の石垣も笏谷石です、丸岡城の屋根瓦も笏谷石です。)

「西山光照寺跡」は、2022年10月に開館予定の「一乗谷朝倉氏遺跡博物館」の近く、JR越美北線の「一乗谷」駅に近いところにあります。近いうちに行ってみます。

 



「西山光照寺跡」の石仏

 

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